【東日本大震災】6年経った東北の今
どうもトガログのトガアキです。
忘れもしない2011年3月11日。
当時高校の野球部に所属していたぼくは部活から帰りテレビをつけるとそこにはにわかには信じられない光景が広がっていたことを今でも鮮明に覚えている。
津波に呑まれる車、住宅、人、目を覆いたくなるものだった。
日本海側の島根県の地に住んでいたぼくにとってそれはメディアを通してしか確認することができなかった。
揺れもなく、もちろん津波など来ていない島根にいたため同じ日本で起きていることだとは思えなかった。
今回そんな東日本大震災で被害大きかった岩手、宮城、福島に訪れた。
岩手県宮古市
岩手では去年の8月。台風による被害も甚大なものでした。
東日本大震災、去年の台風で被害に遭われたあゆみさんにお話を聞く機会がありました。
連れて行っていただいた震災メモリアルパーク中の浜。
この場所はもともとキャンプ場があった場所であゆみさんも来ることがあった場所とのこと。
震災当時のトイレが今も尚残されていて、津波の被害、脅威がどれほどのものだったかが肌で感じ取れる。
キャンプ場を上から見下ろすことができる場所に移動し、上から見る。そこには津波が押し寄せてきた時の最高到達地点が示してあった。
画面左にある青い線が到達地点。
階段を上がったところに位置する場所なので高い場所にはあるが、写真からわかる通りものすごい高さまで津波が来たのがわかる。
あゆみさんは2016年8月の台風の被害で家の一階部分がすべて浸水した。
1年たった今でもその家に住んでおられる。話を聞いていて思うのはとてつもなく明るいということ。子供達も初めてあったぼくに人見知りもせず元気いっぱいに話しかけてくる。
「過去のことを振り返っていてもしょうがない。」
そうおっしゃるあゆみさんの言葉に力強さを感じる。
底知れず明るいあゆみさん家族にぼくは元気をもらった。
岩手県山田町、大槌町
石巻の方に南下している時に山田町の方とお話をした。
今も奥さん、子供2人は内陸の方に住んでいるとのこと。月に1、2回会うことができればいい方だそう。それが子供のためにはいいと思う。ぼくが我慢すればいいだけの話。そうお話をされていた。
被災した時に本当にたくさんの人に助けていただいたから被災地にこられた方には何かして恩返しをするともいっておられた。
もちろん怒りの声も聞いた。国の上の人は本当に被災地を見ているのか?全く信用ならないとおっしゃっていた。メディアなんて操作されていてちゃんとした真実なんて放送しないからと。
山田町も震災の津波、その後の火災で被害を受けた。当時の話を聞いてぼくは正直なんといっていいかわからなかった。というより安易に言葉を発するのためらう。ぼくには想像できないから。
風化させないために今回はこういう記事を書かせていただいています。
大槌町の母ちゃん
大槌町にはみんなから母ちゃんと呼ばれている方がいる。
八幡さんだ。
自身も東日本大震災の被災者でもあり、支援者でもある。
このファミリーショップやはたも6年前、1階は津波で全部水に浸かった。
それにもかかわらず3ヶ月後には店を再びオープンさせ、今まで続けておられる。
被災地にボランティアに来た人のために自宅も改築し、泊まることができるようにされてご飯と宿を無料で提供されている。
そんな八幡さんは今でもボランティアで朝から15〜20㎏の米を毎日炊き、幼稚園の子供や作業する方のために弁当を作られているとのこと。
毎朝3時に起きて炊き出しをして、ぼくの訪れた日なんて深夜0時30分に起きられるということでした。
「若いから寝なくてもいけるね〜」と笑いながら語る八幡さん。まだまだぼくたち20代は動かないといけないなと再認識した。
八幡さんを見て、被災地の人々を見て、本当に元気をもらった。
誰かのために1000万円の借金をして自宅を改装までして人を助ける。人としての大きさを感じる。
被災された時の生々しい話を聞かせてもらっていたが、やはり言葉を失う。体はあるが首から上がない方がいたり、津波後の火災で灰になるまで燃え切った人。
現地に行ったことで感じること、知れたこと多くの気づきがあった。
やはり「風化させてはいけない」
福島県原発付近
空気感、雰囲気がガラッと変わったのは、福島県南相馬市を過ぎたあたりからだろうか。
作業服の人が増え、一般の乗用車の数が極端に少なくなり始めた。
福島原発があった付近だ。
汚染物質を含んだ黒い入れ物が至るところに置いてある。
写真はほんの一部。
そこは車こそ通ることができるようになっているものの、バイクや人が通ることは不可能な地域。車道の左右はバリケードがしてあり、立ち入ることができないようになっている。
こういったものがずっと続いている。
正直ここが同じ日本だとは思えなかった。建物は震災当時のままで残っており、人は住めない。
復興は進んでいるとは言われているが、この地域は完全に元どおりになることはないでしょう。
何十年という歳月をかけてどう復興していくのか。
草木と民家が同化していっている町の様子を見て、もうこの地域は誰も住まないのだろうと感じた。
原発の恐ろしさを感じた。
津波の怖さ
この原発付近は車でしか通れないため、トラックの運転手の方に乗せていただいて通りましたが、その運転手の方も被災された方でした。
津波の恐ろしさについて話をしてくださったのですが、津波は10mくらい近くまでこないときていることがわからなかったそう。
砂浜の波打ち際のザザーという音がして足元に水が来た時に逃げたそうですが、それくらい津波は足音を立てずにやってくるということ。
一瞬の出来事だったそう。
6年経った被災地を訪れて
ぼくは最初にいったように震災があった当時、地震もなければ津波もなかった島根にいた。
メディアの情報だけではわからないことがたくさんあり、自分の目でみて、耳で感じた被災地。
復興はまだまだ進んでいない。
苦しむ人はまだまだたくさんいる。
家に帰れない人。家族と会えない人。当たり前のことが当たり前じゃない、そう強く思った被災地でした。
風化させてはいけない。
6年経った今の東北を少しでも伝えることができればいいと思います。
もし、この記事を読んで気分を害してしまったらすいません。
身近な問題として、みなさんが考えるきっかけになればと思います。
ありがとうございました。